2018年1月20日土曜日

盛岡冷麺の旅 - ①盛岡まで

10月のある日。大館から八幡平アスピーテラインを経て、盛岡へと車を走らせた。


鉱山めぐりが趣味で、旅行先にその手のスポットがあれば必ず立ち寄るようにしている。そんな私にとって、尾去沢と松尾を訪問できたことはこの日の大きな収穫だった。ついでに八幡平の紅葉と温泉も満喫したので、あとは盛岡でこのレンタカーを返すのみ。渋滞に巻き込まれ松尾鉱山資料館の最終入館時刻を逃してしまうというアクシデントはあったものの、それはもはや大した問題に感じられなかった。

このあと盛岡の地で、極めて重大な課題が待ち受けていたからだ。


東北地方に坂上田村麻呂が派遣されていた時代、日本の中央政権は東北の独自性に理解を示そうとは考えなかった。単に魑魅魍魎が跋扈する化外の地と決めてかかったのである。

盛岡冷麺に対して私が向けてきたまなざしも、あるいはそれに似たものだったかもしれない。盛岡冷麺は、東北の真ん中にあって独自の発展を謳歌してきた。しかし、これまで私は平壌の玉流館を宇宙の中心とみなす思想に凝り固まり、平壌よりは身近なはずの盛岡の冷麺をその華夷秩序の埒外に追いやってきた。つまり、食わず嫌いしていた。

言いわけをするならば、いずれ盛岡冷麺という闇に立ち向かわなければならないという考えはかねてから胸中に秘めていた。インターネット上で冷麺について言及する以上、世間で一定の知名度を有する盛岡冷麺について「食わず嫌い」以上の定見を何かしら持っておかなければ無責任なようにも思われた。


そこで、朝日新聞岩手版の連載を書籍化した小西正人『盛岡冷麺物語』(繋書房、2007)を手に入れ、これを教科書としてイメージトレーニングに励んだ。

そして、ついにその日がやってきたのである。岩手山の麓をなぞるようにして国道を南下すると、一面の酪農地帯だった周囲の景色は、やがて量販店が立ち並ぶ郊外ロードサイド型のそれに変わった。車は盛岡市に入った。

つづく