2018年1月21日日曜日

盛岡冷麺の旅 - ②食道園(上)

すっかり日は暮れている。駅前のホテルに荷物を置いて、早速、出かけることにした。

駅前と中心繁華街のあいだには北上川が流れる。開運橋から見おろした北上川の水面は、街明かりを反射して淡く光り輝いている。驚いたことに、この川はまるで山あいの谷川のように流れが早い。奥羽山脈から流れ落ちる水を豊富にたたえているのだろう。

開運橋から見た北上川

それにしても、市街地の真ん中をこんな急流が貫いている光景は見たことがない。カルチャーショックのような感覚に襲われるとともに、盛岡という土地は私の固定観念など通用しない場所であることを予感せずにはいられなかった。

開運橋を渡って到着したのは「食道園」だ。盛岡城跡や県庁にもほど近い市中心部に位置するここは、何を隠そう、盛岡における冷麺文化の発祥の店なのである。


時刻は19時。店内は満席のようで、軒先には入店を待つ行列が出来ていた。そこに加わって待つ。

これは翌日撮った写真。
夜に行ったときは写真を撮らないまま列に並んでしまった

ときどき中から店員が出てきては、冷麺専用のカウンターでしたらすぐにご案内できます、と待ち客に揺さぶりをかけていく。実は、盛岡には厳密な意味での冷麺専門店というものはない。冷麺の人気店とされている店はすべて焼肉店の形態をとっている。

ただ、飲みの締めだとかで、3時のおやつだとかで、冷麺だけを啜りに来るという光景も盛岡では日常的なものである。したがって、そういった利用を目的としている客にとっては、先程の店員のオファーは一考に値するものだろう。あるいは、明らかに余所者然としている私のような「1名様」もターゲットに含まれているのかもしれない。

おなじく翌日の写真

だが、われわれはそんな甘言に惑わされてはならない。まず肉を焼いてこそ、思想的に正しい「先酒後麺(선주후면)」を実践できるのである。鋼鉄の胆力で待ちつづけた。


少しして呼ばれた。店員は、2階の席が空いたが、そこでは生ビールの提供ができない、それでも構わないか、と問うてきた。普段から瓶ビール一辺倒の私としてはむしろ望むところだ。階段を登り、案内された座敷席に腰をおろした。


さすがに1人客はほかにいない。とりあえずナムルと瓶ビールで始める。肉はカルビとミノを焼くことにした。カルビを注文した際、卵はおつけしますか、と持ちかけられたが、何のことだかよくわからず断ってしまった。あとになってカルビをすき焼きのように溶き卵で食すのが盛岡流だと知り、少し後悔した。


2本目の瓶ビールとともに肉が届いた。それ焼きながら、ほかの客の会話に耳をそばだてる。まわりの卓ではおおむね肉を焼き終わりつつあるようだった。

焼肉という段階が終われば、その次にはおのずから冷麺という段階が来る。その通り、周囲では続々と冷麺が届きはじめた。奴隷制から封建制へ、資本主義から社会主義へ、焼肉から冷麺へ。マルクスの言った歴史発展の合法則性とはこのことに違いない。


冷麺が来れば、自然と会話も冷麺の話題になる。ひたすら盲目的にその味を称賛する者もいれば、「麺の洗い方が甘い」などとわかったようなことをうそぶく者もいる。「俺はローソンよりサークルKの冷麺が好きだった」みたいな、ちょっと次元の違う方向に飛び火するケースも確認された。こうやって、みんなでああでもないこうでもないと言い合いながら啜るのが盛岡冷麺なのだろうと思った。


さて、こうなってくると、いよいよ自分の冷麺のことも視野に入れなければならない。とりあえず先酒後麺というにはビール2本だけだとパンチが足りない。お燗をつけてもらった。そして、意を決して冷麺を注文した。

お燗を飲み切らないうちにそれは配膳された。


箸をつけることも忘れ、しげしげと観察した。そして息をのんだ。私自身、盛岡タイプの冷麺を食した経験自体は過去にもあったので、それなりの覚悟はできていたつもりだった。

しかし、この薄い醤油色(!)を呈するスープに浮かんだ太くて白い麺を眺めていと、さすがに動揺せずにはいられなかった。いや、普通はその横にある赤い絵の具みたいなやつが最初からスープに混入された状態で供されるべきところを、きょうは日和って「別辛」で頼んであった。だから、これでもまだ盛岡冷麺の洗礼と呼ぶには不十分かもしれない。


それにしても、なぜ盛岡冷麺はこのような進化を遂げたのか。『盛岡冷麺物語』の内容を思い出してみた。

つづく